has come, and the land is dark...
子供のころにはわからない洋楽も今なら...!
小気味の言いベースが特徴的な歌ですにぇ。歌詞がなくてもBGM性が高く、わたくし個人は好きです。
曲ばかりが有名な”Stand by Me” 1962年から脈々と歌い継がれます。が、気づきました。
「映画本編を一度も見ていない」
致命的すぎませんか!?
ドゥンドゥン♪ ドゥ↓ドゥ→ドゥン↑ドゥン↑♪ ドゥ↑ドゥ→ドゥン↓♪とか鼻歌奏でておきながら肝心の作品をひとつも知らないとは!アップルパイを頼んだのにリンゴ部分を全部残すくらい恥知らず!なんという失態、万死に値する!
買ってきました。
本当は逆ですけどね。発見したから観ておこうと。名作とか言われててもあんまり手を出さない性格もありまして、話に乗れない場面も時折あるんですよ。せっかくだから知っておきたいじゃん。
ちなみにこの記事を読んでも何の得にもなりませんよ。久しぶりの読書感想文を書いているのと同じです。読んでくれる方の感性を刺激して鑑賞意欲がわくかもしれませんが。
本編は省略。ぜひ何かの媒体で探してみてください。
深く考えずに抱いた感想
私は学者でもなければ読解力も察しも悪いので映画を語るのは適さないかもしれません。そんな私が感じたのはふたつです。
大人のせいで苦しむ子供
主人公の少年たちそれぞれ家庭にちょっと問題があります。作品の中で映像も込みで明確に語られるのはゴーディだけです。
ゴーディは兄のデニーを交通事故で亡くしています。お父さんが彼のフットボールの才能に大きく期待していたのです。どのくらいかというと弟であるゴーディが芋をこっちによこしてくれと2度言っても無視してデニーに話を続けるほど。フットもポテトも要素がアメリカンすぎ。今にスカウトが来るとわくわくしていた矢先に亡くしたもんですから両親は4か月たっても立ち直れません。しまいには弟に八つ当たりしますからね。”Why can't you have friends like Denny's?” ”A thief and two feebs?” ”He's a thief in my book” そりゃ友達が盗人だったらいやですけれども、仲良くしてるんだったら全面的に否定するのはどうかと。
自分は運動が得意でもないのに行く先々でデニーと比べられて不快になる。
痛いほどわかります。私自身も同じ経験をもってますので。「兄は○○なのに」ってぼやかれるんですよ。中学に入って教師からも言われた時はそろそろ止めろと子供ながらに。アスカみたいになりますよ。「だからあたしを見て!!」
クリスも被害者です。家庭のガラが良くないせいで何をしても待遇が悪い。
給食費をくすねてしまった彼は、これはやっぱり良くないんじゃないかと考えたのちに先生のところにこっそり返すのです。でも先生は彼が盗んだままということにして、持ってきたお金を自分のスカートに換えてしまう。ひどいよ。人間不信になっちゃう。
仲間思いで情に厚いし本当は善し悪しもわかる立派な人間なのに。どこいっても悪ガキ扱いはひどいでしょ。たまにはちゃんと話を聞いてあげなよ。
全員分書くと長いので割愛しますが、本人の真価を見定める前に家庭の評判だけで子供をけなすってのはよろしくありませんよね。ましてや中学生になるまえの少年なんてまだまだ未熟で考え方も揺れ動きます。兄は良かったけど弟はどうだ、イカれた親父の子供もイカれてる、気持ちはわからんでもありませんけども前向きじゃない言葉をかけ続けるとおかしくなりますよ。少年も自分も。
ひとは物語を求める
『Stand by Me』自体が過去を語る作品です。小説家になったゴーディが当時を回想しながら始まります。作品を描く作品、そうマトリョーシカのような。ドンキホーテの中で、寝取り展開の小説が現れるような。そして何より、『Stand by Me』を鑑賞する私たちも。
物語中盤で、少年たちは森の中で一夜を明かします。食後の煙草を嗜み、焚き火を囲みながら一人が言います。
"Hey, Gordo, why don't you tell us a story?"
「何か面白い話してよ」って無茶振りが過ぎるのに、ものともせずに思いつきでそれなりに尺のあるお話を作れるって、やっぱ将来小説家になるだけあるわ。おそらく即興の創作を語るゴーディ。えらいな。クリスだって背中を押すわけで。
別の少年がこの話のオチがちょっと気に入らなかったようで、文句を垂れます。残酷な仕打ち。普通に喧嘩もんやぞ。しかし語りとは万人に受けずして然るべきなのです。全員にウケる作品が存在したら、それは世界中の嗜好がひとつに集約されている危険な状態の裏返しです。もしくは単純に安い「お涙頂戴」です。
映画の最後で発せられるセリフ。
”Why did you have to die?” ”Why did Denny have to die? Why?”
考えさせられます。
そりゃあ何故死んだのかと問われたら心臓が止まったからで、原因は脳の不全や失血、栄養失調かもしれません。医学的な観点、客観的な視点で考えたらこうした反応で終わってしまうのでしょう。
でも、ゴーディが知りたかったのは表面的な理由ではありません。
人が死ぬ背景がどうだったのか、何のために死ぬ必要があったのか、この命が散ることに意味があったのか。
たとえ話をしましょう。
身内が交通事故に遭って息をひきとったとします。それがデニーのように若い人だったとしましょう。残された兄弟姉妹や両親のうちでひとりは絶対にこう言います。
「どうしてこの子じゃなければいけなかったの?」
私たちの答えは、運が悪かったから、とか、たまたま居合わせてしまったから、とかしかありません。だとするとなおさらその人でなければならない理由がありません。偶然であるならば、不謹慎ですが、他の死すべき人が存在したかも。この子が死ななければ他の誰かが死んでいたかもしれないね。おかげで他の誰かが助かったんだ。ま、気休めにもならん慰め。
遺族はずっと不運を嘆き続けるのです。納得がいかないために。
いつだって人は、特に悪い方向へ事が進んだ場合に、どうしても物語を見出そうとします。自分に言い聞かせる筋書きが無ければ、腑に落ちる展開を作らなければ落ち着けないのです。こうだったから仕方ないのだと思いたくなるもんです。
きっとゴーディも、見知らぬ人の死を目にして感じるところがあったのでしょう。
普段誰かと話すときもオチが欲しかったり含蓄するエピソードにまとめたくなるのも、人間の性なのかもしれませんねえ。
きっと作品としてはもっと別の点も見ごたえがあるはず。
12歳のころにしかできないような無茶な冒険、くだらないやりとり、なつかしさ、友人たちとのほろ苦い関係、それぞれに置かれた立場の違い、いろいろとあるでしょう。ちゃんとこれくらいは私だって感じ取れました!!!!
最期に書かれる文字
"I never had any friends later on like the ones I had when I was twelve"
高校以降、特に大学を出るころになると同じような業界とか趣味、思考回路の人たちとばかりつるんでしまい、全然違う収入層や年齢のひととは関りが薄くなるのを冷たく悲しくつづった言葉。だとおもいます。知らんけど。
いやーそもそも友達が少ないからボキにはきつい映画だったわ~
原作の小説だとまた違う描かれ方なんだろうな。手に取る機会があれば買ってみるか。
では、またお会いしましょう。